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2016-07-22

末期がんと闘いつつ、がん対策基本法成立に尽力

国会成立から10年を経たがん対策基本法。その成立に尽力した政治家・山本孝史氏は、自ら末期がんと闘いながら、患者としての生き方を提示してくれました。

がん難民を救済する法律を
がん対策基本法が成立して10年になります。この法律が生まれる背景としては、症状が進行し、有効な治療手段がなくなった患者、いわゆる「がん難民」が、適切なケアが提供されることなく切り捨てられているという現実がありました。20年以上前からがんは死亡原因のトップとなっており、国として取り組むべき課題だとして、重い腰を上げた結果といえるでしょう

命の尊さを見つめ続けた政治家
10年間でどのような成果があったかの議論は、またの機会にいたしますが、この法律の成立に尽力した山本孝史という政治家をご存知でしょうか。子供の頃、兄が交通事故で亡くなったことをきっかけに、交通遺児救済のボランティアに身を投じ、大学卒業後、財団法人交通遺児育英会を経て衆議院議員となった人物です。1993年の初当選から山本氏は厚生畑を歩み続けました。そして、その視線の先には一貫して「命」の尊さがあり、政治は国民の命を守っていかなければばらないという思いがありました。

ステージ4でも職責を全うすることを選ぶ
2005年12月、山本氏は胸腺がんとの診断を受けます。そこから彼の壮絶な闘いが始まったのです。胸腺がんが見つかった時の診断はステージ4。既に手術も放射線治療も出来ず、抗がん剤が効果があるかどうかといった段階であったようです。余命は半年との診断。治療や家族との時間を優先してもおかしくないところ、政治家としての職責を全うすることを、自らの人生の最終章に選んだのです。
Croissance d'une pquerette, fond nature et soleil

自ら末期がん患者として知った厳しい現実
翌年の5月、山本氏は自らのがんを公表し、同時にがん対策基本法の早期成立を訴えました。抗がん剤の副作用で抜けた髪のために、かつらを被り、病室から国会に通う毎日だったといいます。仕事と治療、そしてやがて訪れるであろう自らの終末期を考えながら、末期がんの患者が置かれている厳しい現実を、自ら実感したのでしょう。余命を全て捧げるかのように、がん対策基本法の成立に尽力したのです。

病み上がりどころか闘病中の出馬
翌2007年7月、改選に際しては選挙活動が困難ということで、選挙区であった大阪ではなく比例区から出馬しました。この時、批判はあったようです。都知事選では過去にがんを患った鳥越俊太郎候補の健康問題が取り沙汰されていますいますが、当時の山本氏は「病み上がり」どころか闘病中、余命幾ばくもない状態でした。とはいえ、比例区への転出を認められるに当たっては、党を納得させるだけの熱意があったのでしょう。党内では最下位の得票ではありましたが再選。天は彼を必要としていたということです。また、酸素吸入器を付けながら登院する山本氏に対しては、党の垣根を超えて、医師免許を持つ議員たちが、容態の急変に備えていたといいます。

治療設計とは「どう生きるか」
山本氏はその暮れ、59歳という若さで生涯を終えることとなります。息災であればがん患者を取り巻く環境の改善に向けて、一層の尽力を続けたであろうことは、想像に難くありません。そして、がんと診断された時、それを正面から受け止め、どう生きていくのかを考える上で、ひとつの生き様を見せてくれたのではないでしょうか。治療設計とは単に「どのように治すか」にとどまりません。がんという人生を左右する病気だからこそ、そこからの時間を「どう生きるか」という観点から、治療も選択することになります。がんであっても何が出来るのか、そして何は出来ないのかということです。

 

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